2007年10月22日

助っ人W

むかし、むか〜し、1970年代のお話。
日本プロ野球に大きな影響を残した外国人の物語。

今回は、大洋のクリート・ボイヤー(1972〜76年)。

多くの場合、助っ人外国人は守れない、
走れないは許されても、打てないは許されない。
しかしボイヤーの場合、打撃は平凡ながら、
超人的な守備を武器に5年間も日本に留まった。

その守備には、幾つもの伝説が残されている。

彼はもともとヤンキースの正三塁手だった。
与えられていた背番号は、なんと“6”番。

名門・ヤンキースで1桁番号を背負うというのは、
大変な名誉である。

1 = ビリー・マーチン
3 = ベーブ・ルース
4 = ルー・ゲーリッグ
7 = ミッキー・マントル
8 = ビル・ディッキー/ヨギ・ベラ
9 = ロジャー・マリス 

ご覧の通り、殆どが永久欠番になっており、
空いているのは2つだけ。そんな中、
ボイヤーが“6”番を付けたのは、
マントルによる指名があったかららしい。

現在でも、ボイヤーの守備はヤンキース歴代三塁手の
中でも「最高」と評されている。

移籍先のブレーブスでも、彼の守備は絶賛された。
あのハンク・アーロンをして「メジャーで一番」と
脱帽したほど。

因みに、この時のチームメイトには、
現ヤンキース監督のジョー・トーレや
元大洋のフェリックス・ミヤーンがいた。

1969年のゴールドグラブ賞は、
ボイヤーが三塁手、ミヤーンが二塁手で受賞している。

さて、そんな選手がどうして大洋に来たのか?

実は、フロント批判によるハワイ追放。
アメリカを見返したい一心で彼は日本にやって来た。

しかしながら、大洋におけるボイヤーは
非常に男気のある人格者だった。

2年目の契約更改のとき、
白紙のままの契約書を差し出し、
「適当に書き入れてくれれば結構」と言った。

余暇を家族とか外国人の仲間と過ごすのではなく、
チームメイトを何度も家に招待しては、
ステーキとかメキシコ料理とかを振る舞った。

夏場、年齢から来る疲労で試合出場が
しんどくても、彼はビタミン注射の打ち過ぎで
青黒くなった腕のままプレーを続けた。

ボイヤーは来日中、その野球への知識から
“野球博士”と呼ばれていた。

そして、もう1つ“恩人”とも。

当時、二軍でトレード要員になっていた田代富雄。
このオバQを一軍に抜擢したのは、ボイヤーである。

更に、解雇寸前だった高木由一。
これをチームに留まらせたのも、ボイヤー。

そして、後にゴールデングラブ賞の常連となる山下大輔。
彼に守備の極意を惜しげもなく伝授したのも、ボイヤー。

高慢ではなく、高潔。

一流メジャーリーガーというと、我儘な選手が多いが、
ボイヤーはそのイメージを払拭した。

米国通算.242、162本塁打、654打点。
日本通算.257、71本塁打、218打点。
日米でゴールデングラブ賞(69、73、74年)を獲得。
引退後は、メジャーリーグのコーチなども務めた。

そのボイヤーが今年6月4日、脳出血のため逝去した。
70歳だった。ご冥福を祈る。

さて、次回は1970年代に来日した外国人を
もう1人だけ紹介しようかと思う。
これがまた、ボイヤーとは正反対の男なのである。

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posted by ねっぴぃ at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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